外向思考と内向思考の違い
あなたの目の前に、ある現象が起きたとします。例えば「木からリンゴが落ちる」という現象が起きたとしましょう。そのときに外向思考の人は
これは一体、どうなっているんだろうか?
ということを考えます。一方の内向思考の人はというと、
これは何故、起きているんだろうか?
両者ともに「なぜ」を問うているわけです。これは一見すると、どちらも同じように見えるのですが両者は全く異なる思考法です。
外向思考の思考法は科学的・内向思考の思考法は哲学的
事実を発見する外向思考
外向思考タイプは思考が外に向けられています。そのため「この現象はいったいどういうことなのだろうか?」という思考法になります。「リンゴが木から落ちるとは一体どういうことなのだろうか?」と問うわけです。
そのため外向思考の人は事実-万有引力の法則-を発見するのです。
独自の解釈をする内向思考
一方の内向思考タイプは「それが起きるのは何故だろうか?」と原因や原理原則を自分に問うわけです。
ですから内向思考タイプは事実を発見するわけではなくて、独自の解釈を生み出すのです。例えば「リンゴが何故落ちるかといえば、リンゴが木から落ちたいからだ」といった具合です。
その答えは事実(=科学的)でなくてもいいのです。自分さえ納得すればいいので、完全に自己満足(=哲学的)なのです。
外向思考は公式的、内向思考は理屈的
公的な事実こそ全てな外向思考
外向思考の人は事実に則した思考法をするため極めて公式的といえます。そしてその公式から外れることを許しません。公式というのは公に認められた理論・科学・データ・法律・統計などのあらゆる事実を指します。
人が思考するためには知識という材料が必要ですが、その知識が公的に認められた事実でなければなりません。
「こういう場合はこうでなければならない」というような公式に当てはめて行動するため、その公式から外れた人間に対して容赦なく批判します。
彼らにとって公式や事実が絶対なのです。
例えば、沖縄の少年革命家ゆたぼん君という子どもがいますが、この子は学校に対するアンチテーゼを唱えています。誰もが当たり前のように学校へ行くことに対して、それはオカシイんじゃないかという主張です。
それに対して外向思考の人は「学校は義務教育で通うべきもの」であり、それは法律(教育基本法および学校教育法)によって定められているからだと考えています。
彼らにとってこういった公式は絶対的であり、この公式から外れた人間は許せないのです。
自分の考えこそ全てな内向思考
一方の内向思考はちょっと違います。自分が考えついたことが大事であって、それが公式的な事実であろうがなかろうが関係ないのです。
「私はこう考える」この考えこそ真理であり絶対なのです。ですから他人に何か言われても彼らは自分の考えを崩しません。彼らにとっての真理があるからです。
「これこれこういう考えがあるのは分かる。でも私はこう考える」
そしてその考えは浅はかな思いつきではなくて、考えに考えた抜いた答えであるために、ちょっとやそっとの論法では崩せません。そのため、ある意味では非常に理屈っぽい人とも言えるでしょう。
このタイプの人は自分が納得したことでないと行動しません。世論や流行など世間が「こうだ」と言っても、彼らはどこ吹く風です。何事も疑ってかかり自分で考えることこそ絶対的な真理なのです。
多分この文章を読んでも、このタイプの人は「いや、これはこういうことじゃないか?ああいうことじゃないか?いや、それともこうではないか?」など思索の旅にでることでしょう。
外向思考はエリート、内向思考は仙人
社会的に勝ち組になりやすい外向思考
外向思考は公的な事実が全てなので、世間で認められたこと-例えばお金、肩書き、地位、名誉、効率、学歴、ブランド、賞など-を求めます。
そのため非常にエリートになる確率が高いといえます。起業家、大企業の役員、医者、官僚、政治家、資本家などが典型的なこのタイプです。
選ぶ女性も”自分の好み”というよりも、美貌、若さ、地位、肩書きなどで選びがちです。なぜ政治家や起業家の彼女や奥さんがモデルや芸能人やアナウンサーなのか分かることでしょう。
それが彼らの公式にとって相応しいからです。
世間に一切興味がない仙人のような内向思考
同じ思考タイプでも内向思考はそれらに興味がありません。そんなものは何処の誰かが決めた価値観であって、彼らにとって何ら意味がないのです。
彼らにとって意味があることは深く深く考えることであって、自分に興味がないことには目が向きません。貪欲なまでに知識を求め、その知識を深く思考し続けます。
ある意味でいえば、その考えが社会の役に立つかどうかなど分かりません。
例えば数学者は数学の世界に没頭しますが、その数学が今いったい何の役に立つか?と問われても分からないことがあります。もしかしたら結果として後で役に立つかも知れませんし、一生役に立たないかも知れません。
しかし彼らにとってそれが世間で役に立ったり、数学賞をもらったり、お金を貰ったりすることなどどうでもいいのです。それよりも、数学で真理にたどり着くほうがよほど大事なのです。